[ index ] 

油を売る

1975年頃

 屋根の上で平和な夢をむさぼってタマは眠っていた。はるか空と海の向こうで油を売っている者や争いを買う者達の海の上や陸の上の数々の不幸が夢のようであった。
 三丁目のタバコ屋の二階に大学生の次郎が下宿していた。よくその部屋へ出向いて居座る猫の名前はタマといった。もっともタマが四丁目をうろつく時は何と呼ばれるかは知ったことではない。
 そして、その家の一階に小さな女の子が住んでいた。彼女もよくその部屋に押しかけて行って居座った。彼女の名前は花子と言ったが、花子ちゃんは四丁目辺りへ行ったとしても人に好き勝手な名前で呼ばせたりはさせなかった。
 さてタマくらい美しい猫はいないと三丁目界隈のこころある人はみなそういった。花子はタマを捕まえると隣の恵子ちゃんちへ行って見せびらかした。タマの毛並みの良さと肌触りは恵子ちゃんの持っているフランス人形なんかとは比べようもなかった。だから恵子ちゃんはタマと花子がやってくるときは、二度と噛付かれないように、お人形は隠すのであった。
 二階へ上るための階段があった。花子ちゃんが登るときは何ともないが、次郎は乱暴に登ったので階段はいつも何かブツブツと文句を言ったが、実際はギシギシと材木語でわけがわからなことを叫ぶのだった。
 次郎は今日も学校から帰ってくると階段に散々悪態をつかせておいてから部屋に入って音楽を聴いた。素敵な音楽の途中で花子のアナウンスが入った。次郎は唖然とした。アナウンサーは、
 「ジローのばか。ジローのばか♪」
 と抑揚をつけて言った。次郎は花子にテープレコーダーの使い方を教えたことを後悔した。先週の授業をさぼって録音した音楽がオシャカになってしまった。
 この前は画集に落書きをされた。もっともそれは現代絵画の、落書きを集大成したような画集だったから、少々幼稚な落書きを重ねられてもびくともしなかった。
 日ごろから次郎は熱心な自由主義者であって特に幼い者に対してもあれをしてはいけません。これもしてはいけませんと言って成長途上の精神の発達の障害になるようなことはいたしたくはなかった。だからといって、しょっちゅうこぼれる次郎の後悔が、元の茶碗に戻るわけではなかった。
 今日もさっそく花子がやって来た。
 「じろうちゃん、こんにちは」
 「花子ちゃん、ごきげんよう」
 「玉、知らないの?」
 「ビー玉はその箱の中だよ」
 「ビー玉じゃないわ。タマよ」
 「タマがどこにいるかは、タマに聞かないとわからないな。タマを探して聞いてごらん」
 「あら、ほんと。タマ。タマ。おいで」
 「タマは眠っているんだよ」
 「おにいちゃん。タマを起こしておいで」
 「屋根の上だから危ないよ」
 「じゃあ、タマを助けておいで。タマ。タマ。今、おにいちゃんが助けにいくよ」
 「行かないよ」
 「どうして?」
 「おにいちゃんが屋根の上で気絶して眠ってしまったら、いったい誰が助けてくれるんだい」
 「おかあさんにたのんでね、ものほしざおを借りて来てね、花子ちゃんがね、それで、おにいちゃん、つついてあげるわ」
 「花子ちゃんはほんとに親切だねえ」
 「そうよ、はなこちゃんは親切なのよ。そら、おにいちゃんにレコードをかけてあげるわね」
 と言って花子は、次郎のレコードを器用に引きずり出してプレーヤーの上に乗っけた。次郎は不信のまなざしで眺めていた。それからがいかんであった。花子はプレーヤーのアームに腕を乗っけてまるで科学者のような慎重な目つきで、摩擦係数の実験のようなことをやってのけた。針とレコードがキーキーと材木語のアリアみたいに泣きわめいて合唱した。
 次郎は幼児期における科学的実験精神の発達の尊厳をうんぬんしてなんかいられなかった。レコードとレコード針のほうの命の尊厳の叫びが次郎の心臓に突き刺さったのだった。
 キーキー言ってる機器の危機を救難すべく、まず、びっくりして飛びあがってから、飛び出した。ところが、飛び出したところが、その前に前もってテープレコーダーが陣取っていた。
 次郎はその機器を蹴っ飛ばして足を抱えてひっくり返った。次郎はキーキーと泣き出したりこそしなかったが、歯ぎしりをして苦い沈黙の言葉を口にした。次郎の最愛のテープレコーダはあごをはずしたあげくに、リールテープが出腸してあっちのほうで腸捻転みたいにのた打ち回って倒れた。
 「だいじょうぶ?」
 「・・・・・・・」
 「バンソウコウを持ってこようか?」
 「レ・レコードは・・・」
 「待ってて。今、かけたげる。」
 「い、いや結構です。」
 花子は階下へ降りてバンソーコーを取って来るとそれを次郎の足首にぐるぐると巻いた。いったいどういうつもりだろう。花子は、頭痛がするといえばバンソーコーを鉢巻きみたいに頭にぐるりと巻くだろう。要するにバンソーコーをまじないかなんかみたいに考えているのである。
 「おだいじにね」
 花子は出ていった。
 次郎はひっくり返ったまま手を伸ばして本を読み始めた。それは適当に面白くない本であった。適当に退屈したところで、ドアがノックされて、岡田が入ってきた。
 「よう、山岸。この家は相変わらずギシギシしとるなあ」
 「おう、岡田か、ノート持ってきたか」
 「持ってきた。おい、どうした。テーブがくるくるパーではないか」
 「下の女の子にやっつけられた・・・」
 「あ、あの子か。相撲でもして、投げ飛ばされたのか?」
 「まあ、そんなところだ。そんなことはどうでもいいから、早くノート見せろよ」
 「ほいさ、お前、人のノートばっかり、あてにしてあかんぞ」
 「まあな」
 次郎はノートを読み始めた。
 やがて退屈したあげく、しびれを切らせてしびれた足を調べていた岡田が突然叫んだ。
 「おい、茶はどこだ。茶だ。茶だ」
 「俺は勉強しているんだぞ。茶々を入れるな茶々を。茶ぐらい自分で探せ」
 「何が勉強してるだがや。そりゃ、俺のノートだぞ。自分の家の茶ぐらい自分で入れろ。お客が茶だと言っているのがわからんのか」
 「ええい、うるさいやつだ。茶はそのタンスの中だ」
 「お前んとこじゃ茶をこんな所に入れとくのか。もしかしてこれ洋服ダンスじゃないのか?」
 「洋服ダンスで悪かったな。その左側には、洋酒もあるぞ」
 「おお、あるある。これは何の漬物だあ?」
 「それは、らっきょうのアルコール漬だ。うまそうだろ」
 「うん、お前のところには何でもあるなあ。で、コップはどこ?」
 「下」
 「そうか」
 岡田は階段を降りていった。流しの横の棚の中から誰のかわからんコッブがいっぱいあるのを適当に取り出して洗った。スプーンも適当にしっけいすると鼻歌を歌いながら、それらを持って二階へ登って行った。
 「はーるがきたーはーるがきたー、どこにーきたー」
 「お前、頭に来たのと違うか」
 次郎が心配して言った。
 「山に来たあ、岸にきたあ、脳にもきたー」
 岡田は次郎の頭の辺りでコップとスプーンをカチャカチャ鳴らして歌った。
 「あーあ。岡田。お前いくつになった」
 「二十歳になった。だから酒も飲めるし歌だって歌えるぞ」
 「少しは大人になったのだから、大人しくするものだ」
 「そう味気ないことをいうな。今、味のあるお茶を作ってやるからな」
 「味のあるだって?辛いのはいやだぞ。この前みたいに、塩なんか入れるなよ」
 「なに、辛いのがほしいとな。からしか?ワサビか?何を入れるぞね」
 「レモンを入れてくれ。右の引き出しに入っとる」
 「おお、便利なタンスだ」
 岡田はいろんなところをかきまわして茶を作り始めた。次郎はカバンをパクッと開けると、お菓子を、その笑ってるみたいなカバンの口から取り出した。