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愛 車

 私は、最近自動車を従兄妹に貸しています。私の自動車は常時、従兄妹の家にあります。私が自動車に乗る必要があるときは、彼女は私の自動車を持って来ます。そして、私の行く所に同乗して付いて来ます。私の用事が済むと彼女は、私の自動車を持って帰ります。
 私の家には立派な車庫がありますが、彼女は私の車を持って帰って、野ざらしにしています。それが私は嫌いでした。野ざらしにされて自動車がかわいそうです。かつて私は、私の自動車を愛していました。自動車で坂道を登る時などには、自転車で坂道を登る時の感覚を思い出しては、車がとても疲れるのではないかと同情しました。私は車に苦しいことをさせたくはありませんでした。
 彼女が私の家に来るとき、生真面目に窮屈な直列駐車をします。彼女はいわゆるA型の完全主義者です。わずかなガソリン代を節約するためにハンドルを思い切り切って後ろがつかえた苦しげな停車方法をします。たぶんそれが原因で、私が乗り込むと、しばしばキーロックしています。そして彼女は私にハンドルの据え切りをするようにと指示します。私は据え切りが嫌いです。シャフトが痛みそうでタイヤも擦れて痛そうです。私の家では斜めに余裕をもって楽な方法で停車するべきだと私は文句を言いますが、彼女は理想主義者なので彼女の正しい駐車方法を続けています。
 私が運転していると、横に陣取っている彼女が急に「あっち行けホイ」と指差します。向こうの交差点が赤になったので、それを回避するために緊急に迂回せよと言うのです。彼女は交差点で待たされるのが大嫌いで、信号機のない交差点が好きです。しかし、私は信号機のない交差点が嫌いで、信号機のある交差点で待つほうが好きです。私は車が横から来る按配を神経質に判断するのが嫌いなのです。
 彼女の運転信条は第一にガソリン代を節約する、そのためにはできるだけ停車させない、そして、なるべく空気の汚れていない美しい脇道を行くのです。達成すべき多くの運転目標があるのです。
 私の運転方法は、できるだけストレスを避けることです。右折はできるだけ避ける。人がうろついていそうな小道は避ける。信号機などの社会システムに、流されるように行きます。私の行き方は人生の生き方としては、あまり面白い生き方とはいえません。私は車の運転には絶望しているのです。
 彼女は、私の車をどこかにぶつけてテールランプを壊しました。私は言いました、電球を交換して、セロテープでも貼り付けなさいと。彼女は接着剤で、プラスチックのカケラを貼り付けました。私が自動車をきちんと修理しようとしないので、彼女は、私を非難しました。私が車をネグレクトしているのだと言うのです。事実、今、私は私の自動車を愛していません。愛することを諦めたのです。
 「そんなに、地球環境だの排気ガスだのガソリンが勿体ないなどと言うのなら、自動車に乗らなければ良いではないか」と、私は彼女に言いました。すると、彼女は、
 「死ねというのか」と、言い返しました。彼女は車がないと生きていけないのです。私は、車がなくてもさほど困らないので、廃車にすることを計画しています。そうすれば、私は運動不足が少し解消されて健康になれるのです。