玄 関
私の住む家の玄関は暗い。本来その性格は、さほどにも暗くはなかった。玄関の外には軒があり、それは半透明のプラスチックで出来ている。私の家相を象徴する玄関は、さんさんと光あふれるサンルームであってしかるべきであった。かくも私の性格を象徴するにふさわしいこの暗さは、私の性格の心優しい小心さを源としている。20年前、知人から鉢植えをもらった。シェフレラ、別の名を香港カポック、わずか数cmの切り枝であったが、しだいしだいに大きくなった。鉢の大きさも次第に大きくなり、最後には鬱陶しくなって玄関の外に放り出したのであった。
私は心優しく小心者だ。他者の成長を妨害するようなことはしたくない。シェフレラ樹は好き勝手に生長を続け、やがて半透明な軒下に充満するようになってしまった。
ある日、ぼんやりと私は、軒を見上げていた。そして、そこにシェフレラの葉の幻影が見えたように思えた。しかしそれは幻影ではなく、真実の葉の影であった。知らぬ間にシェフレラは、悲願の空に超越していたのだ。プラスチックの波板の隙間から解脱したシェフレラは彼岸の世界で成長を続け、大きく繁栄して風にそよぐ葉陰を下界に反映していた。
シェフレラは何を勘違いしたのか、薄暗い軒下で、大量の根を伸ばし出した。それは不気味に軒下に垂れ下がり、私の家の玄関先の気味悪さを一層引き立てるのだった。 玄関の戸口は閉まりがなく、油断をしているとそろりそろりと開いてくる。するとカニが入って来て家の中で迷子になってしまう。玄関には必要最小限の、長靴、運動靴、おんぼろサンダルが並んでいる。天井の蛍光灯は撤去した。代わりにセンサー電球を設置している。戸口がだらしないと散歩中の猫とかを感知して点灯する。昼間も暗いので点灯する。とても便利だ。
玄関というものは、何のためにあるかというと、小金持ちぶりを自慢して展示する所だ。
そこで私は、1万円程度のマザーボードを吊るしている。マザーボードとは何かというと、パソコンの基本基盤だ。細かな電子部品が整然と並び圧倒的な機能美を誇っている、レリーフ抽象絵画である。こんな物を玄関に吊るしている馬鹿者はめったに居ない。私はうかつにも電源を入れたまま工作していてマザーボードをショートさせて壊してしまった。捨てるのはとても悔しいので、玄関に展示することにした。それは私の愚かさの象徴である。
玄関には置物がある。使わなくなった巨大なパソコンを3台並べている。これは展示するために置いているのではない。家の中は各種ガラクタが詰っていて、適当な場所がないので玄関に並べたのだった。近所の人は、私のことを毎日仕事にも行かない、胡散臭い人物だと思っていたのであるが、回覧板を持って来たさい、これらのパソコンを見て、私がパソコンの修理を仕事にしている立派な人間であると考えるようになった。このように良い効能があるので、無駄に邪魔なパソコンを玄関に置いておくことにしたのだ。
私は、画家だったので、玄関には自作の絵を紙にプリントしたものを額縁に入れて展示している。画家になるには資格はいらない。ただ単に「私は画家です」と宣言すれば良い。売れる必要はない。他者の絵画を理解できる必要はない。他者から評価される必要もない。人生を通してひき篭もり、絵を描き続けることが出来れば画家なのである。しかし最近は、ほとんど絵を描かなくなった。それゆえ「画家だった」のである。