錯覚醒
私も高校生の頃から青春時代に、死の恐怖が存在しました。布団の中で自ら引き起こした恐怖が立ち去るまで息を潜めていたものでした。今となってはそれを再現するのは難しい…。例えばステレオグラム。特殊な模様の画像を超越的に見る訓練をすると、ある時、常識視では見えなかったものが深遠に見えて来るようになります。
世界の終わり、永遠の、私の意識の不在を空想するとき、独特の奈落の感覚に陥りました。我思うゆえに我あり、しかるに、いずれ訪れる永久の私の不在。この不条理な概念がパニック発作を引き起こしました。関心を持たずにはいられない形而学的問題であり、不毛の問いであり、災難でもありました。素朴で純心な唯物論信仰者に授けられる迷惑な悟りのようなものでありました。
この苦難に対処するには、二つの道が考えられます。
「我在り」の道は西洋的な、全人格的人生を目指す生き方です。人間の在りえるあらゆる経験を極めようとします。若い時代は物質的にも精神的にも宝を探し追い求めます。崇高に思える目的でさえも、その執着が苦しみをもたらします。部屋に捨てられない物が溢れ、自由に動くことも困難になるようなものです。
「我無し」の道は東洋的な、仏教的無我を目指す生き方です。他者の経験と自分の経験の差別を捨て、自己存在の執着を捨て去ります。