1997
古い日記を読み返してみると、私がコアの集会に最初に参加したのは、16年前の1997年5月24日(第4土曜日)みたいです。「出席者は合計3名だった。」と記述しています。翌月28日 の記述も、「主催者2名、出席者1名」とあります。同10月「コア出席者2名主催者2名」、11月は「コア出席者1名主催者1名。」対面カンセリング状態?
翌年1998年6月にコア通信No1を発行しています。そして2000年6月から、ほぼ毎月コア通信が発行されるようになり、文書入力、画像レイアウト、印刷を私が担当しています。 1997年頃世間ではバブル崩壊です。非正規社員だった私は少し景気が良くなりました。3月にOffice97を購入しています。その中のAccess97を使って10年以上仕事をしました。
1997年2月28日に母は脳出血で倒れて各種指令をいっさい発しなくなりました。ストレスと酒で知能の低下した父は、兄と伯父の口車に乗せられて3月末、三光病院に入れられてしまいました。お見舞いに行くと、天国のような特別室で天使のような看護婦さんに世話をされ、父は薔薇色に頬をそめて愛嬌を振りまいていました。点滴をされていて、なぜか顔がぷっくりと異様に膨らんでいて、まったく父のようには見えませんでした。
4月3日には院長先生のお勧めで私は家族会の断酒会に参加しています。母は酒で豹変する父に難儀していましたが、私は少々気味が悪いぐらいで災難ではありませんでした。父が知能低下すると相対的に私のほうが立派な人間になるので多少気分が良いぐらいです。 このように私は大変薄情な人間ですが、母がストレスで倒れて、頭が膨張して、坊主にされて、誰が誰だかわからない有様になってしまった時には、とても気の毒に感じました。
しばらくすると父は、古い寄宿舎のような煉獄のような所に移されていました。何度か父に会いに閉鎖病棟の中に入って行くと大勢の人々が構内を薄らぼんやりと歩き回っていました。一旦このような閉鎖病棟に入れられると、出獄するのはとても難しいでありましょう。さぞ退屈でありましょう。と同情していますと、難しい病気が発覚して4月24日には香川医大付属病院に転院になりました。
この新しい病院は綺麗で、若くて綺麗な看護婦さんも居て、天国のような、ツツジの花も咲き乱れる天国の入り口のような病院でした。しかし信じられないことに、普段おとなしいはずの父が、星飛雄馬の父がちゃぶ台をひっくり返すように、飯がまずい!と怒って、ご飯をひっくり返したらしいです。何だか怪しい検査結果の後、手術はせずに5月26日に退院となりました。
その後父は、年期の入った不細工な女性が たむろする飲み屋で 怪しい治療サービスをしてもらったり、様々な病院へ入ったり追い出されたりした後、7月29日に亡くなりました。若い頃は男前で、立派な人でしたので、葬式には大勢の人々が集まりました。