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夏の反省

 28年前の1988年夏36歳の時、私は精神病を再発して精神病院に入れられました。かつて統合失調症は精神分裂病、早発性痴呆とも呼ばれていました。私は精神病院に入れられるのを回避する現実的な知性が足りない状態になっていました。病識はありませんでした。
 私は今もなお病気だとは考えていません。自然な人間の精神がなりうる意識状態の一つの在り方であると考えています。
 病気説ですと、「脳の中のなんらかの分泌液が過剰になる病気である。病気であるからして病人には優しくしましょう」という具合です。
 目の中に分泌液が過剰になる現象はたいてい、病気ではありません。単に泣いているだけです。泣くのは女々しくて恥ずかしいから、差別して虐めるような社会では、泣かない人と、泣き続ける人に分離するでしょう。そこで泣く人には涙を抑制するような薬を飲ませるでしょうか。そんなことはないです。泣くことはたいして人の迷惑にはなりません。
 一方、薬物や何等かのきっかけで、異常な精神状態になって興奮して脳の中の分泌液が異常になったとき、他人に多大な迷惑をかけます。迷惑なので座敷牢に入ってもらいます。現在では抗精神病薬で直接的に精神を拘束します。すると意欲がなくなり感動もなくなります。おとなしくなります。
 統合失調症という名の由来となった概念、「外界から取り入れた情報を統合して意味ある現実世界の認識ができなくなる病気」ですが、私の意見では、「外界から取り入れた情報を過剰に自分勝手に統合して非常識な世界観の認識をしてしまう状態」です。通常人は外界からの情報をありふれた世界観に合致するように解釈しますが、狂人は、より興奮できる異常な世界観になるように解釈します。
 狂人化への素養は日常生活への不満と特別な世界への強い憧れがあります。狂人になるには百人に一人ともいわれる才能が必要ではありますが、もしも狂人になりたくなければ、まず、この特別でありたいという貪欲さを捨てねばなりません。
 この過剰な貪欲さは、一般的人生の敗北感から反動的に生じます。ギャンブルに負け続けているのに一攫千金を狙うようなものです。
 狂気の経験者として、私の経験した狂気を説明しようと思います。狂気は、夢を見ている状態に似ています。夢では出来事が荒唐無稽に進行します。しかし狂気は、夢見の状態ほど馬鹿ではありません。頑張れば簡単な計算もできますし、切符を買うこともできます。ワープロ入力なども出来ますが、長続きできません。作業に集中できないのです。なぜかと言うと妄想世界の物語の進行で忙しいからです。その意識状態は、神話とかファンタジー小説を読んでいる時の意識状態に近いです。正常な人が小説を読んでいても簡単に日常生活に戻ることができますが、狂気の場合は戻りません。現実世界の人物を見ると妄想世界の登場人物として解釈するのです。外界からの印象は物語の挿絵のように独創的に機能します。外界からの知覚は素材として強引に即興的に物語が展開してゆくのです。
 私が1978年12月(26歳時)、最初にどのように狂気に移行したかといえば、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の主人公が物語に入り込む時の感じです。映画マトリックスの中で、赤か青の薬の選択後、世界が変容してしまう感覚にも表現されています。私の場合は、アルバイトで行っていた小学校の宿直室で図書館から借りてきた霊界物語という延々と続く本を読んでいる最中に登場人物が自分のことであると気がついた時からでした。
 そして、9年後の再発時のきっかけは、パソコン通信で、有名な住職に叱られてプライドが痛く傷ついて自傷的に自分の全メッセージを削除して精神が不安定になり、「風の谷のナウシカ」を見て過度に感激したこと等を契機に狂気になりました。
 今は(2016年64歳)、宗教関連の事柄や精神医学にも全く関心がありません。
 私が思うに、精神的安定を獲得するには、現実的世界での客観的成果と社会の役に立つ何かしらの事柄に熟達することにあります。地道に金にならなくても仕事を続けることです。それには仕事から、細々とした達成することによるささやかな喜びを感じられることが大事です。不自然な薬物の影響下にあると、そのことが困難になります。